Shake the spirits 1
足を踏み入れた店内は、蒼く揺れていた。
それがカウンターの背後に埋め込まれた大きな横長の水槽のせいだと気づく。水の揺らぎが控えめなライトの光を反射して、店内に神秘的な波模様を映し出している。ささやきにも似たピアノのBGMに混じって、水の音がかすかに耳に届いた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの向こうの中年の男が落ち着いた声をかけてきた。店主らしい。カウンター席に座る男ひとりのほかに客はいない。風早は迷わずその横に腰を下ろした。
「すみません、待たせてしまいましたか」
彼の詫びの言葉に、柊は静かに首を横に振った。
「いえ。君は時間どおりです。私が早く来ただけですよ。待つのもまた楽し……という気分を味わいたくて」
ボルドー色のシャツにダークカラーのボトム、丈高のグラスを手に、ものやわらかに微笑む男の姿はこの店にひどく似合っていた。
「それより来てくれてうれしいですね。無視されても文句は言わないつもりでしたが」
「くわしいことは何も書かずに『たまには大人同士で飲みましょう』とだけメールが来たら、かえって気になりますよ」
「……ま、それは確かにそうでしょうね。さて、君も何か飲みますか?」
人を喰ったような柊の答にも風早はおだやかな表情を変えない。
「ああ、じゃあジントニックをお願いします」
寡黙そうな店主は風早の前に枝つきのレーズンの載った小皿を置きながらうなずいた。あらためて店内を見回す風早の目は、つい水槽に引き寄せられてしまう。視線に気づいた柊が言った。
「ご主人の趣味だそうです。魚は二十種類ぐらいいるそうですが、私もすべてを確認したことはありません」
水槽の下辺あたりに、ごつごつした岩と見まごう茶色い魚が貼りついている。妙に愛嬌のある顔だった。気泡の列の中を、鱗をまたたかせながらとりどりの魚たちがのんびりと泳いでいった。
「静かで洒落た店だ。こちらに来て間もないあなたがよく知ってますね」
「落ち着いて居座れる場所を探していたら何となく、ね。こういった酒保は『あちら』にはありませんし……」
柊は手元の飲み物を一口飲んだ。
「素朴な醸し酒もよいけれど、いろいろな酒が味わえるのはこちらの世界のいいところのひとつですね。こうしたカクテル……と言うのでしたか、これにはとても興味深い名前が多い。由来など聞いていると飽きません」
彼は自分のグラスを見やった。薄黄色の液体は三分の一ほどになっている。
「ちなみにこれは『午後の死』というそうです。ずいぶん物騒な名前ですが、異国の語り部の作品名からとったとか……。まあ、何を飲もうと酔ってしまえば同じではあるけれど」
残りを飲み干すと、彼は今度はシンプルなブランデーソーダを注文した。
「それにここなら、君も知り合いに合わずに済むでしょう?」
風早はうなずいた。地元だと、生徒の保護者と思わぬところで顔を合わせないとも限らない。別にかまわないといえばかまわないのだが、柊と話すのであれば、知った顔のない場所の方が正直落ち着ける気がする。ここなら程よく彼らの生活圏から離れていた。
「で、わざわざ俺を呼んだのは」
「メールのとおり、たまには君と静かに飲みたかった……というのではいけませんか?」
まったく信じていない顔の風早の前にジントニックが置かれた。柊は口角を小さく上げると、彼に供されたソーダのトールグラスを風早のタンブラーに軽く触れ合わせた。乾杯のつもりらしい。
「そうそう、今日のことは我が君には何と?」
「仕事帰りにあなたと飲みに行くと。隠すまでもないでしょう」
「姫は何かおっしゃっていましたか?」
「特に何も。大人同士楽しんできてねと笑顔でしたよ」
「そうですか……。かなうことなら、いつか我が君ともこうしたひとときを過ごしてみたいものですが。姫はこちらの世界では、まだ酒をたしなむことが許されない年齢なのでしょう? あれほどの戦いをくぐり抜けてきた方でさえ成人として扱われないとは……それもまた、異界がいかに安穏かという証明のようなものかもしれませんが」
言いながら、大粒のオリーブを銀のピックで口に運んだ。
「で、とりあえずは我が陋屋への姫の禁足令を解除してほしいのですよ」